精神養子運動とは、「原爆孤児」と呼ばれる、身寄りのない子どもたちの養育をアメリカ人家庭が手助けする運動のことです。
今回は、日本とアメリカの間で展開された精神養子運動を通じて、原爆孤児たちにもたらされた支援や、原爆孤児に対する救済の実態・思惑などをまとめました。
精神養子運動とは、アメリカに住む養親が、広島の養護施設で生活する原爆孤児を「精神養子(英語:Moral Adoptions)」し、金銭的なサポートのほか、手紙・小包などのやりとりを行う試みのことです。
1965年以前、日本人は「米国移民法(英語:Immigration Act)」の定めによって、アメリカ国籍を取得して養子縁組を行えなかったことから、原爆孤児を救済するための次善の策として精神養子が発案されました。
精神養子運動の主な目的には、「原爆孤児の成長を精神的・物質的にサポートすることを通じて、日本人の原爆孤児とアメリカ人が疑似的な家族関係を築くこと」が挙げられます。
精神養子運動の開始に大きな影響を与えた人物として、谷本清氏とノーマン・カズンズ氏の2名が挙げられます。
谷本は、1937年〜1940年にアメリカ・ジョージア州のエモリー大学神学部に留学した後、帰国した広島で爆心地から3キロ地点で被爆しました。このときの様子が雑誌『ザ・ニューヨーカー』で紹介され、自ら被爆しながらも救護活動を行った英雄としてアメリカでも広く知られるようになります。
この谷本に共鳴した人物が、ニューヨークを拠点とする週刊誌『土曜文芸評論』の主筆でありジャーナリストのカズンズです。彼は1949年8月に広島を訪れて戦災児育成所を視察し、施設の狭さや苦しい経済状況などを知り、翌9月17日発行の誌上にて精神養子の意義を呼び掛けました。
また、翌10月には広島市長宛てに書簡を送り、自身の呼び掛けに対する反響の大きさを伝え、「資金が増えれば、広島の全原爆孤児を支援したい」と申し出ています。これを受けて、広島市は12月に「広島市戦災孤児養育資金管理運営委員会」を設置し、「原爆孤児の精神的な養子縁組」への協力を伝えました。こうして日米にまたがる原爆孤児への支援・養育事業が開始されたのです。
精神養子運動は9年間(1950〜59年)にわたり行われ、合計500人ほどの精神養子が成立し、アメリカから総額1,700万円を超える送金があったとされています。また、『土曜文芸評論』の購読者からの反響は大きく、1950年時点で養親の数が300人以上に及び、候補となる原爆孤児の数を上回るほどだったと報じられています。
とはいえ、実際には精神養子と養親が親密に交流していたケースは珍しく、文通や送金などがほとんどない事例も多かったと考えられています。この主な理由には、斡旋機関の不備が挙げられています。
さらに、近年は、精神養子運動を、情緒的な結びつきを強調することでアジアにおける立場を強固にしようとする「冷戦オリエンタリズム」にもとづく行為であったと捉える意見もあります。この意見によると、精神養子運動は、「家族・親子」の絆をアピールしながら原爆投下の罪悪感や批判を解消し、「アメリカに従属する日本の姿、不均衡な関係」を隠すものでもあったと考えられているのです。
この精神養子運動の事例からもわかるように、子どもを救おうとする試みや働きかけの周りには、イメージと異なる実態や思惑が存在していることがあります。
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